東北大震災以降、「絆」という言葉を頻繁に耳にするようになった。
震災や原発事故をきっかけに、家族の絆が深まった、というような論調が多い。「絆が深まった家族」の例が美談仕立ての感動のストーリーとして取り上げられることもある。
実態はむしろ逆。震災と原発事故によって、多くの家庭や職場、さまざまなコミュニティが崩壊した。一部は再建されただろうが、どう考えてもすべてが再建されたわけではない。だから、震災で絆が深まった、などというのは欺瞞的な話なのだ。
例によって、ごくまれなケースだけ取り上げて、あたかもそれが大多数であるかのように錯覚させるメディアの手法。少なくとも、絆が深まった例だけではなく、絆が切れた例も同列に、客観的に報道するべきであり、情緒的なコメントを付けるべきではない。
では、なぜメディアは震災によって絆が深まったなどと美化するのか。これは災い転じて福となす、という発想で、昨今はプラス思考などとよばれているが、政府の後手後手の対応への批判や、東電の責任に対する批判から意識をそらす効果を狙ったプロパガンダであり、大衆に対する心理操作とみなすべきもの。それを「元気をもらった」などと受け入れてしまう国民は、お人よしを通り越してバカというべきだろう。
そもそも絆とは、馬などの動物をつないでおく綱のこと。転じて人と人とのつながりを意味するようになった。
人間関係は流動的であり、個人はそれを取捨選択する自由がある。地縁、血縁は絆といえば聞こえがいいが、しばしば個人の自由を束縛する封建的なしがらみとなる。だから、絆という言葉を、無条件に肯定するべきではない。なぜなら、絆へのこだわりは、容易に私たちを、古代ローマや中世ヨーロッパの農奴、江戸時代の水呑百姓と同じ状況に陥らせるからだ。いや、実態は、未だに私たちは、奴隷であることを自覚していない奴隷、目に見えない綱=絆でしばられ、柵=しがらみの中に閉じこめられている、家畜なみの奴隷なのだ。
日本を支配する官僚、財界人、政治家は、国民が何事に対しても辛抱強く耐え、健気に生きることを望む。そのような性質を日本的美徳などと称揚し、庶民をコントロールする。絆も、そういう手段のひとつとして利用されているに過ぎない。
絆【欺瞞語】
自由や権利を制限し、国民の犠牲の上に成り立つような社会を受け入れさせたいときに、権力やその御用メディアが持ち出すことば。
posted by 城名山粋太 at 16:22|
欺瞞語・無意味語・滑稽語辞典
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