2012年01月29日

4年以内に70%の確率で首都直下型大地震??

最近、よく「4年以内に70%の確率でマグニチュード7クラスの首都直下型大地震がおこる」という話を耳にする。

どこか、うさんくさい。

まず、何で4年以内なのか。何で70%なのか。
仮に、地震予知の科学的な方法があるとしても、こんな単純な数値が出てくるものなのか。

筆者は別にこの予測を否定しはしないが、今後、マグニチュード7クラスの大地震は、何も首都直下型だけではなく、日本全国、どこでも起こりうる、と思っている。

それを、ことさら「首都直下型」を強調するとすれば、「首都で起きたら政治・経済的に大混乱が起きるので、備えが必要。他の場所なら、その場所で混乱が生じるだけだから仕方ない」というような考え方によるのだろう。

それにしても、東北大震災を予知できなかったのだから、今後も地震予知などできるはずがない、というべき。

いずれにせよ、この予測は、純粋に科学的な予測、というのではなくて、なんらかの政治的意図からのもの、という気がしてならない。

posted by 城名山粋太 at 19:08| ニュース | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年01月24日

手をかえ、品をかえ

「薄型テレビ出荷台数 初の減少」というニュースが報じられた。


去年1年間の国内の薄型テレビの出荷台数は1982万台で、前の年と比べて21.3%減少。薄型テレビの年間の出荷台数が前年と比べて減少するのは、平成13年に統計を取り始めて以来初めてだそうだ。

そのため「大手電機メーカー各社のテレビ事業は、収益の確保が難しい状況が続いていて、消費者の需要を取り込むことができる新たな商品の開発なども課題になっています」ということになる。

手をかえ、品をかえ、なんとかして人々に、モノを買わせようとする消費資本主義はとどまるところを知らない。それは、地球規模で見れば、つまるところ石油などの資源とエネルギーの浪費。さらには生産過程から廃棄後にいたるまで、膨大な廃棄物を生み出し、環境破壊を加速する。

何か、人類は愚行を拡大しているような気がしてならない。

筆者は終末論者ではないが、このような愚行を見るにつけ、ノアの大洪水や、ソドムとゴモラの伝説を思い出してしまう。

天罰は下らないが、人類は、自ら滅亡のシナリオを書き、それに沿って進んでいる、つまり自業自得、というべきか。
タグ:薄型テレビ
posted by 城名山粋太 at 19:47| 消費社会を考える | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年01月21日

絆?

東北大震災以降、「絆」という言葉を頻繁に耳にするようになった。

震災や原発事故をきっかけに、家族の絆が深まった、というような論調が多い。「絆が深まった家族」の例が美談仕立ての感動のストーリーとして取り上げられることもある。

実態はむしろ逆。震災と原発事故によって、多くの家庭や職場、さまざまなコミュニティが崩壊した。一部は再建されただろうが、どう考えてもすべてが再建されたわけではない。だから、震災で絆が深まった、などというのは欺瞞的な話なのだ。

例によって、ごくまれなケースだけ取り上げて、あたかもそれが大多数であるかのように錯覚させるメディアの手法。少なくとも、絆が深まった例だけではなく、絆が切れた例も同列に、客観的に報道するべきであり、情緒的なコメントを付けるべきではない。


では、なぜメディアは震災によって絆が深まったなどと美化するのか。これは災い転じて福となす、という発想で、昨今はプラス思考などとよばれているが、政府の後手後手の対応への批判や、東電の責任に対する批判から意識をそらす効果を狙ったプロパガンダであり、大衆に対する心理操作とみなすべきもの。それを「元気をもらった」などと受け入れてしまう国民は、お人よしを通り越してバカというべきだろう。

そもそも絆とは、馬などの動物をつないでおく綱のこと。転じて人と人とのつながりを意味するようになった。

人間関係は流動的であり、個人はそれを取捨選択する自由がある。地縁、血縁は絆といえば聞こえがいいが、しばしば個人の自由を束縛する封建的なしがらみとなる。だから、絆という言葉を、無条件に肯定するべきではない。なぜなら、絆へのこだわりは、容易に私たちを、古代ローマや中世ヨーロッパの農奴、江戸時代の水呑百姓と同じ状況に陥らせるからだ。いや、実態は、未だに私たちは、奴隷であることを自覚していない奴隷、目に見えない綱=絆でしばられ、柵=しがらみの中に閉じこめられている、家畜なみの奴隷なのだ。

日本を支配する官僚、財界人、政治家は、国民が何事に対しても辛抱強く耐え、健気に生きることを望む。そのような性質を日本的美徳などと称揚し、庶民をコントロールする。絆も、そういう手段のひとつとして利用されているに過ぎない。


絆【欺瞞語】
自由や権利を制限し、国民の犠牲の上に成り立つような社会を受け入れさせたいときに、権力やその御用メディアが持ち出すことば。


posted by 城名山粋太 at 16:22| 欺瞞語・無意味語・滑稽語辞典 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年12月28日

音楽はアヘンだ!

福島の震災に関連して、ミュージシャンがどうしたのこうしたの、クラシック音楽家がどうしたのこうしたの、という報道をよく目にする。

被災者を勇気づける、元気を与える、というようなことらしいが、まやかしだ。

音楽はただの気晴らしで、気分的なもの。一時的に「元気をもらった」ような気になるだけ。いわば、メントールの配合された塗り薬を塗れば、スッとして一時的に筋肉痛を忘れるようなもの。気が紛れるだけで、本質的な治療ではない。

こういった音楽、古くから人々をコントロールするために、祭礼、儀礼に用いられてきた。現代の消費資本主義社会においても、根拠のない幻想を人々に植え付けるために巧妙に利用されている。

音楽にまどわされてはいけない。音楽で放射能は減らない。音楽で飢えはしのげない。

音楽は副作用のない麻薬に過ぎず、つかのま、楽天的な気分にさせたり、集団に共同幻想を与えることによって、私たちの理性的な判断を妨げるだけなのだ。

(2011.12.30加筆修正)
posted by 城名山粋太 at 22:47| 福島原発事故2011 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年10月12日

ダンシャリ?

「ダンシャリ」、「ダンシャリ」と耳にする。何かの擬態語かと思ったら「断捨離」だそうだ。

一種の整理術だとか。

人生や日常生活に不要なモノを断つ、捨てる、モノへの執着から離れる、というようなイメージらしい。

消費資本主義で過剰なモノに埋め尽くされている日本の社会では、これはこれで、戦術的にはある程度は有効だろう。しかし、この断捨離は、消費資本主義の歪みを、個人の受け止め方で回避するように薦めているだけで、本質的な解決にはならない。

消費資本主義の呪縛に捕らわれている人間は、仮に本人が「断捨離」したつもりであっても、依然として過剰なモノに囲まれている、という状況は変わらないだろう。また、個人のレベルを超えた社会的な無駄も解消されない。

そもそも、断つべきもの、捨てるべきもの、離れるべきものが存在することが問題なのだ。なぜ、余計なガラクタを買ってしまったのか、なぜ、余計なモノやサービスにこだわりを持ってしまうのか、ということを反省するべき。

戦中の物資欠乏を幼い頃に経験してトラウマを背負った世代が、豊かさに憧れ、高度経済成長期を経て、高齢化して、多少、欲望も減退し、冷静になった、というべきか。かつて「清貧の思想」などというのもあったが、断捨離も、これに通じるところがある。これが消費資本主義を考え直すきっかけになれば、それはそれで意味がある。

しかし、おそらく、そうはならない。多くの一般人にとっては、断捨離は積極的な幸福感をもたらさないだろう。ヘタをすると、断捨離の結果として、再びどうでもいい別のガラクタを溜め込む、という状況も起きそうだ。つまり、単に不要なモノやサービスに浪費する行動をリセットするに過ぎない、ということ。

古代ローマや中国では、宴席で食の快楽を追求するために、ときおり庭に出て、木陰で自分の咽を鳥の羽で刺激して食べたものを吐き出し、再び宴席に帰って食べ続けたという。

自分の中にある、モノやサービスへの過剰な欲求が、消費資本主義によって植え付けられた幻想であることを自覚しない限り、断捨離は、この鳥の羽の役割を果すに過ぎないだろう。

断捨離【滑稽語】

(2012.01.21加筆修正)
posted by 城名山粋太 at 19:51| 欺瞞語・無意味語・滑稽語辞典 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする